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9月, 2024の投稿を表示しています

近所の本屋がでかくなった

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近所の本屋さんが引っ越しをすることになりました。長年通い続けている、いつも興味深い本が並ぶお店です。店主は本への愛に溢れ、温かな雰囲気を醸し出す方。何気なく足を運びたくなるそんな場所でした。 移転前 これまでは細長い、少し心もとない小さな建物にありましたが、この度、隣の少し広々とした建物へ移転することになりました。新しい店舗は地震に強く、安心して本を手に取れる環境が整います。この知らせを聞いて、思わず心が温かくなりました。 書店業界は、オンライン通販の波に揉まれ、厳しい状況が続いています。そんな中、この本屋さんは見事に生き残り、さらに成長を遂げました。私が定期的に本を買い求め、応援してきた甲斐がありました。喜びもひとしおです。 単に店舗が大きくなったからというわけではありません。この本屋さんの背景には、「人の思い」が深く息づいているからこそ、心を打たれるのです。店主の情熱と、街の人々の温かな愛情が形となって、今、目の前に広がっています。 デジタル社会が進む中で、「人情」や「人と人とのつながり」を感じる機会は確実に減っています。そんな状況だからこそ、この本屋さんが地域に根ざし、静かに成長していく姿は、本当に尊く、美しいものに感じられます。人と人との絆が、街を優しく育んでいく。その実感が、私の誇りでもあります。 P.S. 実は、以前の細長いビルは工事のための仮の店舗だったそうです。元々はもっと大きな建物にあり、一時的にこの小さな場所に移っていただけでした。それでも、数十年にわたり地域の人々に愛され続けてきたこと。それこそが、この本屋さんの最大の財産なのでしょう。 ちなみに、この文章は草稿をChatGPTにて推敲してもらいました。ロジカルでなくても意図を汲み取ってくれる点がありがたいです。元の文章と比べて格段に読みやすくなりましたが、やはり初めから綺麗な文章を書けるようになりたいものです。林真理子さんのように、好きなように生きて気持ちの良いエッセイを書けるようになれたらいいですね。

自己啓発欲って何だろう

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書店で自己啓発系の本が大きな棚を占める理由。それは、多くの人がこれらの本を買っているからでしょう。では、なぜそんなにも人々は自己啓発本を手に取るのでしょうか? 給与所得者であれば、基本的にポジションごとに給与が決まっており、自分の生産性が向上しても給与に直接的な影響はありません。また、仕事の効率を上げたからといって、労働時間が劇的に減るわけでもないのが実情です。つまり、自己啓発本を買って学んでも、目に見える形でメリットが還元されるわけではないことが多いのです。 それでもなぜ自己啓発本は売れ続けるのでしょうか?消費と考えるべきか、それとも自己投資と捉えるべきか。直接的なリターンが少ない分、「消費」として買われている側面が強いのかもしれません。しかし、それだけでは説明できない何かがあるように感じます。 ここからは、自己啓発本を買う背景にある心理やトレンドをいくつか挙げてみます。 収入が増えるという期待感 自己啓発で身につけたことが、長い目で見て収入アップにつながる、という希望があるかもしれません。ある種の「投資」として、自己啓発本を手に取っている人もいるのでしょう。 「自己啓発をするのが当たり前」という社会のトレンド 「自己啓発に努める人=成長意欲がある人」というイメージが定着し、そこに追いつくために自己啓発をするのが当たり前、という雰囲気があるのかもしれません。 「自己成長はかっこいい」という風潮 成長意欲を持つ人はかっこいい、自己を高める姿が美しいといった風潮があり、その「かっこよさ」を手に入れたいと感じる人も多いようです。 「仕事ができる人」と思われたい願望 実質的に生産性が向上するかどうかはともかく、「仕事ができる感」を演出することで周囲に「仕事ができる人」と思われたい、という欲求が動機となっているケースも考えられます。 「取り残されないため」の自己防衛 周囲に仕事のできる人たちが自己啓発に励んでいると、「自分もそれをしていないと評価が下がってしまうかも」という不安を感じることもあるでしょう。そういった不安から自己啓発本を手に取ることも少なくありません。 未知の仕事スキルを学び、仕事を「ゲーム化」して楽しみたい 新しいノウハウを学び、それを実際に仕事で試すことで、仕事が楽しい「ゲーム」になるような感覚を求める人もいるでしょう。自己啓発本は、そんな楽しみを提供して...

グレーゾーンを楽しむのが苦手

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グレーゾーンが苦手な私 実は、私は「グレーゾーン」を楽しむのがとても苦手なんです。 どんなことでも「正しい・間違い」「好き・嫌い」「良い・悪い」といった、はっきりとした区切りが欲しくなるタイプで、価値観や感情のプラスとマイナスの間にある“曖昧な領域”に足を踏み入れるのがちょっと怖いんですよね。 もちろん、合法的に生きたいし、「人に迷惑をかけるな」という母の教えも根っこにあります。 これは田舎育ちの母が私にくれたありがたい教えですが、逆に「枷」になることも。自分の道徳心に自信を持つための大切なものではありますが、時にはその枠を少し緩めたいと思うこともあります。 特に、 相手がどう感じるかわからない行動 や、 一見マイナスに見えるけど実はプラスになるかもしれない行動 には躊躇しがちです。 たとえば、「相手は嫌がるかも?いや、実は喜ぶかも?」というときや、「今は損だけど、後で得になるかも?」なんて場面、ありますよね。そういうときにどうしても、余計な遠慮をしてしまいます。 もちろん、相手が嫌がることはすべきじゃないし、誰も得しないなら控えるべき。 でも、「ちょっとマイナスっぽく見えるけど、実は…」ってことや、後でプラスになることもあるはず。それなのに、私が勝手に悲観的になって、必要以上に遠慮してしまっている気がします。 こういう気持ちの背景には、いくつかの理由があるんです: 相手の感じ方が想像しづらい  どう感じられるかを判断する力が弱いので、つい安全策を取ってしまいます。 対人関係で、マイナスがプラスになる感覚をあまり掴めていない  実はプラスになり得る場面でも、恐れてしまうのかもしれません。 目標に対する意欲が弱く、一貫性を優先しがち  自分の価値観に縛られてしまいがちで、冒険が足りないのかも。 「リスク小・リターン中〜大」を好む傾向  無理なく得られるものにばかり目が行って、「リスク中・リターン極大」は避けてしまいがち。 オフェンシブな人の価値を認識できていない  人が言いにくい領域へ踏み入って話したり、質問することにより、それを受けた人は逆に心が楽になることがある。また、心の深いところをオープンにすることで、集団のつながりが強くなったりもする。 こういうところを変えるためには、もっと自分と違う価値観や感覚を持った人と出会って、そこから学ぶことが大事だと思っています。...

拠り所の人格

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 人には拠り所が必要だ。 拠り所がないと、人は心の底から崩れ落ちてしまう。 幼い頃は、親がその役割を担う。成長とともに、拠り所は多様に変化する。 それは、友人かもしれない。恋人、兄弟、本、アイドル、音楽。あるいは、自分が演じる姿や、過去の経験。時には、愛犬、ぬいぐるみ、懐かしい家族写真かもしれない。 共通するのは、すべてが何らかの人格や感情と結びついていること。 無機質なモノを拠り所にするのは、本当に難しい。なぜだろうか。 それは、拠り所に求めるものが、単なる存在以上だからだ。 「わかってもらいたい」「認めてほしい」という、人間の根源的な願望。生と死を共有する存在としての共感。自分を理解してくれる信頼感。 人生という複雑な旅路に、ポジティブな意味を見出してくれる期待。そして、変わらずに寄り添ってくれる安心感。 こうした感情は、人格を持つもの、あるいは人格を投影できるものにしか宿らないのかもしれない。 人は、心の支えを通じて、自分の存在意義を確かめているのだ。